申論題內容
(三)明治中期以後の日本の注文化が、ドイツ法系の伝統に向かって強く傾斜しつつ発展した ことは、決して偶然ではなく、 、明治政府が英米仏流の自由主義的・民主主義的風潮を自 覚的に排して、プ プロイセン的・ドイツ帝国的な官僚支配体制の確立を目指したことの結 果であると見るべきであろう。そして、手本とされたドイツそれ自体が英・仏に対して は後進国の性格を帯びていたことも、やはり、日本における性急で人為的な近代化への 要求に合致する事情であった。 いずれにせよ、このようにして成立した稚受法体系をその法的枠組として、日本の近代 化がその後半世紀余にわたって進められてきたわけである。この過程がきわめて歪みの 多い、破行的なものであったこと、特に、一面での急速な工業化と、他面における統治 の絶対主義的性格、および家族関係や労働関係における半封建的要素の存続とが独特の しかたで平行していたことは、だれしも認めざるをえないところであろう。しかし、日 本の近代化の功罪についての価値判断は別として、この世界に類を見ないほど急速な発 展において、ヨーロッパ大陸法、なかんずくドイツ法に範をとった立法事業の果たした 役割を過小評価することも、また公正な態度とはいいがたい。(碧海純一「法と社会」(中公新書、1967年)109-110頁)